第2章 世界を体験する tks
シカゴの科学博物館のゼネラルモーターズ社の寄贈展示の話から始まる
展示の仕方は興味深かったが、展示は科学を教える助けにならなかった
夢中にさせるが、新しい知識は与えない
それどころか、誤った情報が伝えられることもあった
例外の科学博物館:サンフランシスコのエクスプロラトリアム
見学者が能動的に展示と出会える
科学博物館の言い分「まずはどうやって科学に興味を持たせるか」
=体験的認知に重点を置いている
↔同意するものの危惧を抱く
私は学び、考え、内省する機会を与えるという難しい仕事を遂行できていない言い訳に、このようなことばを安易な妥協として使ってしまう博物館があまりにも多いことに危惧を抱くのである。
動機づけとしての体験的認知を内省的学習のための道具にどうやって結びつけうるかのヒントとなる例はゲームセンター
体験的認知と内省的認知
熟練の本質は、何をすべきか素早く効率的にわかること
体験的(反応的)思考こそが熟練行動の本質である
反応が自動的に起こり、内省なしに無意識のうちに出てくる
処理に必要な情報がすでに獲得している場合に限られ、それを獲得するには時間と努力が必要である
内省的思考は体験的思考とは異なる
2つのモードの違いは脳の情報処理構造の違い
体験モード=データ駆動型の処理
反射と似ている
内省的推論は深くまで推論できるが、処理は時間と負荷がかかる
内省モードとは概念を扱うモード。プランニングしたり吟味したりするモード
内省にとって最適な環境は仕事に関連するもの以外の何もない静かなところ
↔豊かでダイナミックな刻々と変化する環境
→体験モードに導く
イベント駆動型処理で知覚されたものが認知を駆動する→内省に必要な心の資源が残らない
内省的認知は概念駆動型のトップダウンの処理
体験モードは知覚的処理のモード
=パターン、イベント
体験と内省の二分法は簡略化していることに注意
※空想はどちらにも含まれない
テクノロジーは体験的思考あるいは内省的思考のどちらか一方へと向かわせる傾向がある
現代的な脅威は内省的であるべきときに体験してしまうこと
①道具の設計が適切でない
②適切な道具であっても不適切なやり方や場面で使われる
(1)体験モードのための道具なのに内省を要求する
(2)比較、探索、問題解決の助けにならない内省のための道具
★(3)内省すべきときに体験してしまう
楽しみが思考を乗っ取ってしまう
思考が体験モードなのに内省をしたと思い込みやすい
(4)体験すべきときに内省してしまう
人生において娯楽と仕事のどちらも大事なように、精神(心)には体験的思考も内省的思考のどちらも重要
二種類の認知、三種類の学習
三種類の学習がある
①蓄積(accretion)、②調整(tuning)、③再構造化(restructuring)
①蓄積(accretion)
事実を集積すること
例:新しい語彙や既知の単語のつづりを学習する
知識の貯蔵庫への追加
概念的枠組みをもっていると覚えやすい
②調整(tuning)
練習はスキルを調整する
練習によって、内省を要したスキルが体験モードでできるようになる
体験的思考とは調整された思考
調整には時間がかかる
③再構造化(restructuring)
蓄積と調整は体験モードであるが、再構造化は内省的である
教育では、認知的な変数より動機付けのほうがずっと協力
エンターテインメントが内省の引き金となることもある
至高のフロー
至高のフロー(optimal flow)
チクセントミハイが提唱
集中し没頭している状態、一種のトランス状態
強い集中は体験モードになるときに維持されやすい
教育に必要な学習が、ゲームの学習と同じように魅力的で楽しくあっていけない理由はない
至高のフローを引き出すものに注目した2つの研究
ブレンダ・ローレルの「一人称(first person)」体験の分析とスザンヌ・ボトカーの「活動中心のアプローチ(human activiry approach)」の研究
どちらも人間の主観的な感覚を重視し、気が散るのを最小にする方法を論じている
ブレンダ・ローレルの「一人称(first person)」体験の分析
「一人称的」関与と「三人称的」関与を区別
三人称的関与は受け身で見物人として見守る、あくまで部外者
一人称的体験は直接的、情動的にのめり込む、イベントの中に自分を投影する
気が散ると一人称的体験は難しい
妨害は外から来るとは限らない
道具が原因となることもある
コンピューターの警告やメッセージ
tks.icon賢くなるためのコンピュータが、それを妨げている事例
スザンヌ・ボトカーは注意の分断についての研究をした
タスクを遂行するときに人は焦点と目標を持つ
注意は道具ではなくタスクそのものに向けられるべき
タスクに直接かかわっている感覚の「直接関与」が必要
現在わかっていることからの指針
至高の体験の助けとなる環境
インタラクションとフィードバックが豊富である
明確な目標ときちんとしたルールがある
常にチャレンジの感覚がある。その難易度は適切で、難しすぎず、簡単すぎない
直接関与の感覚がある
適切な道具がある
妨害や注意の分断がない
教育への批判
ゲームは新しいチャレンジが次々と与えられることで注意が維持される
一方で、教育はそれがない
教室での1時間の講義が主流
生徒どころか誰だって1つのことに1時間も集中することはできない
チクセントミハイの調査:立派な高校の生徒であっても、教師が話していること「以外」のことを考えている
人間は1つのタスクを長い間考え続けるのが苦手
偉大な学者であってもせいぜい約10秒であると言っている
にもかかわらず、教育の現場では注意を維持するための対策なしに、集中することを要求している
コーチの話
コーチは習熟するための条件を注意深く設定し、フィードバックとガイダンスを適切に与える
tks.iconコーチは至高の体験の助けとなる環境を用意している。
コーチはプレイヤーの代わりに内省してくれる
良いプレイヤーになるためには体験モードである集中が必要だけど、学び、向上し、自分自身を鍛えるためには自分のパフォーマンスに対する内省が必要
コーチがいないと自分で内省しなければいけないが、それはコーチに内省してもらうよりずっと難しい
コーチは蓄積、調整、再構造化の適切な配合の仕方を知っている
ゲームセンターでも同様のプロセスが起こる
プレーだけではなく、お互いに教え合い、情報を交換しあい、学習している
tks.icon我々、というか環読プロジェクトではこちらが理想かもしれない
絶え間ない刺激、仮想世界、ほかのプレーヤーや教師との適切な社会的交流がガイダンスとフィードバックを保証する
体験モードでの体験と内省モードでの体験の双方を与えるのが理想
マルチメディアの話
マルチメディアに対して熱狂と不安の両方を持つ
インタラクティブなマルチメディアによってかなり進んだところに行けるようになったは本当か?
写真にカーソルを合わせたら情報がポップアップする
つまらないことがカラフルなコンピュータ・グラフィックスによって誇張されても、それは所詮つまらないということである
tks.icon科学博物館の話に戻ってくる
インフォーマルな学習と学校での学習の話→教育におけるマルチメディアの話
ゲームが要求している行動は、学校の勉強でやってほしいこととまったく同じ
大量の知識と探索、仮説検証が必要だし、状況を探索し比較し、場合によってはやり直すこともする。
仲間同士で研究したり議論したり、攻略本を読んだり、内省も必要になる
教師とゲーム制作者それぞれが尽くせる最善のことを組み合わせる
教育者は学習すべきことを知っている
エンターテインメントは興味と興奮を作り出す方法を知っている
情報と実演を豊富に提供するためにテクノロジーを使うべき
→教師は知識発見のアシスタントとなる